松下村塾
松下村塾は木造瓦葺き平屋建て 50.90uの小舎で、当初からあった8畳の1室と、後に増築した10畳半の部分とからなっている。
 初め吉田松陰の叔父玉木文之進が自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。ついで久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたった。
 安政4年(1857)11月5日、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになった。
 松陰が藩から家学教育の許可を得て名実ともに村塾の主宰者となったのは安政5年7月であるが、同年11月29日松陰はふたたび一室に幽囚され、続いて再入獄の身となった。松下村塾は3年間のうち最後の1年間門弟に接して指導激励した場所である。

木戸孝允旧宅
木戸孝允は藩医和田昌景(禄高20石)の長男として天保4年(1833)6月26日にこの家に生まれた。
 7歳のとき、近隣の桂九郎兵衛孝古の養子となったが、実家のこの家で成長した。初め桂小五郎といい、33歳のとき藩命によって木戸貫治に改め、ついで準一郎と称した。実名は孝允で号は松菊など6つ持っていた。17歳のとき兵学門下生として明倫館で吉田松陰に学び、20歳のとき江戸に出て剣術を学んだ。30歳のときから藩政の要職について藩内の正義派の指導をはじめ薩、長の連合に尽くした。
 旧宅は萩城下のほぼ中心の武家屋敷地に位置し、木造桟瓦葺き2階建てで、孝允が誕生した部屋や庭園などよく旧態を保っている。

菊屋家住宅
菊屋家の祖先は、毛利氏に従い広島から山口に移って町人となり、さらに萩城の築かれた慶長年間に萩に移ったといわれ、後には藩の御用達を勤めるほか、その屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられてきた豪商であった 主屋の建築年代は明らかではないが、家に伝わる勤功書や建築手法からみて承応元年(1652)から明暦3年(1657)までの間に建てられたものと推測される。
桁行13.0m、梁間14.9m、切妻造り桟瓦葺きで居室部は前寄り一間半書「みせ」とし、その奥は土間寄りに役向きの三部屋設けられている。
 全国的にみても現存する大型の町の家としてその価値は極めて高い。

萩市観光HPより